人民元が香港ドルを「駆逐」する日は来るのか?

RSS
(注目された8月の李副総理香港訪問)

本年8月、次期総理の最有力候補と目されている李克強副総理、および周小川人民銀行行長が香港を訪問し、香港の国際金融センターとしての地位向上、香港における人民元オフショアビジネスの発展促進等に言及し、香港の発展と本土・香港間の経済協力を推進していく旨演説したことは記憶に新しい。同演説は、香港関係者から、北京の香港に対するコミット(支持)を確認するものとして注目され、また歓迎された。その際に発表された、香港の人民元オフショア市場拡大のための10項目にわたる支援策では、香港株連動上場投資信託(ETF)の導入(本土から香港への投資)、本土との人民元貿易決済の範囲を本土全省に拡大すること、非金融部門の人民元建て債券発行を拡大し、2011年の総発行規模として500億元(金融、非金融半分ずつ)を目指すこと、香港企業の人民元による中国本土への直接投資(FDI)と、人民元適格海外機関投資家(RQFII)方式での本土証券市場への投資の解禁(当初規模200億元)、第12次5カ年計画に基づき、本土・香港間で人民元金融サービス・商品の開発協力を深化させること等がうたわれた。特に、本土へのFDIや証券投資は、香港の人民元資金を本土に還流させるルートとなること、またFDIが認められたことによって、企業が香港で人民元建て債券を発行する意義も増し、債券市場の発展につながることが期待されている。李訪問は総じて、国際金融センターとしての香港への本土のコミットが歓迎される一方で、副総理の訪問に伴う厳重な警備体制への香港市民やマスメディアの不満が高まるという、「1国2制度」という特異な状況に置かれている香港を象徴するものであったと、内外で受け止められた。

(人民元オフショア市場の拡大)

香港の人民元オフショア市場の現状を、中国銀行(Bank of china)の推計や各種報道等から見ると、まず人民元預金は、2009年末630億元、2010年末3150億元から、2011年5月には5400億元と急速に増加している。うち企業預金が7割、個人が3割程度である。預金総額、外貨預金総額に占める人民元預金のシェアは、各々8.5%、17.2%であり、うち3分の2程度は、本土企業、グローバル企業等が貿易決済から生じた人民元を香港で預金したものである。本土の貿易全体に占める人民元決済の割合も、2.5%(2010年)、7%(2011年1-3月)と上昇しているが、そのうち香港を通じるものが73%(2010年)、86%(2011年1-3月)と大半である。これは香港と本土との貿易関係が深まっていることを反映しており、実際、その貿易額自体、2010年、2011年1-4月、各々24.5%、18.3%と伸びており、1998-2008年の年平均伸び12.6%を大きく上回っている。また、人民元業務のライセンスを持つ金融機関の62%にあたる121の金融機関は、香港に拠点を有している。他方、人民元建て債券(点心債券)の発行は、解禁された2007年以降、累計で1000億元超、うち香港での発行は358億(2010年)、280億(2011年1-5月)と、まだそれほど活発ではないというのが市場の評価である。また個人や企業の人民元ローンに対する需要も、人民元相場の先高感が強くまた相対的に高い人民元金利の中で、銀行顧客は米ドル、香港ドル建てローン借入を選好する傾向があり、さほど伸びていない。本土企業は、本土より金利の低い香港オフショア市場での人民元借り入れを好む可能性はあるが、これは厳格に管理されており、現状困難な模様である。この結果、人民元ローン残高は、2011年6月末で約110億元と、人民元預金残高比2%程度に留まっており、その分、銀行の米ドル、香港ドルの預貸率(LDR)が各々80.4%、62%(2011年4月)と高くなるという、預金と貸出での「通貨ミスマッチ」が生じている。

香港人民元オフショア市場に関わる措置
2004 香港所在の銀行、特定の顧客に限って、試験的に人民元の預金、送金、両替、信用サービスを供与
2005 小売、飲料、運輸など7つのセクターの企業に限り、人民元預金創設
2006 香港住民の預金開設
2007 本土金融機関の香港での人民元建て債券発行
2009 香港と上海、および広東省の4つの市間の人民元での貿易決済
2010 貿易決済、本土20市、および全世界に拡大、本土非金融機関の人民元建て債券発行、銀行間トランスファー、企業の人民元購入上限撤廃
2011 本土との貿易決済を本土全地域に拡大、本土への直接投資、証券投資の試験的解禁
(資料)各種報道より筆者作成

(貨幣代替の懸念と、それを否定する論調)

人民元オフショア市場の発展は、一義的には国際金融センターとしての香港の地位を強化するものとして香港から歓迎されているが、他方で、香港での人民元の流通拡大は、人民元が悪貨というわけではないだろうが、有名な「悪貨は良貨を駆逐する」グレシャムの法則も引き合いに出されて、香港ドルが人民元に取って替わられる、一種の貨幣代替(currency substitution)を起こすのではないかとの懸念が、香港で生じている。またそれを受けて、そうした懸念は誤解に基づくものだと否定する論評も見られる。たとえば、5月27日付第一財経日報(上海)、8月30日付国際財経時報等は、在香港の金融関係者の見解を引用しつつ、貨幣代替の危険性の背景に香港ドルの米ドルペッグの問題があること、香港の人民元預金残高は、ここ2年間の急速な伸びから考えると、本年中にも1兆元、5年以内に3兆元と香港の預金全体の半分に達する、あるいは早ければ2年以内に香港ドル預金規模を上回ることも予想されるとし、そうなると貨幣代替は現実のものとなってくると論じている。また、9月10日付京華時報は、西側会計事務所が行ったアンケート調査を引用する形で、香港企業の大半は、香港ドルや米ドルより人民元を信頼していることを伝えている(人民元を信頼する企業は80%にのぼるのに対し、米ドルは24%、ユーロは18%にすぎない)。これらに対し、陳徳霖香港金融管理局(HKMA)総裁は、「オフショア市場の急速な発展により、香港に急激かつ大量に人民元が流入し蓄積されることから、香港ドルの地位にも影響を及ぼしかねないと懸念する声もあるが、そもそもオフショア市場を創設して通貨の国際化を進めようとしているわけで、とりわけ初期の段階では、流入が流出を上回るのは当たり前の事であり(人民元を使用して外から輸入しようとする本土企業は、人民元を使用して本土へ輸出しようとする外の企業より多い)、人民元の流入について懸念を抱く必要は全くない」としている(7月18日第一財経日報掲載「人民元オフショア市場発展についての私見」と題する論評)。さらに、同総裁は、「人民元預金の多くは本土企業や欧米企業が貿易を通じて得た人民元がその源泉で、香港内の外貨の割合が増加しているにすぎず、香港人の香港ドルに対する信頼は変わらない」としている(5月27日付第一財経)。

中国銀行も、同行経済分析レポート(7月)で、(1)香港の個人消費に占める人民元使用の割合は、大きく見積もってもなお10%程度と小さく、本土からの個人旅行客を解禁した2003年以降も、香港ドルの発行額は年平均8.6%と、それ以前を上回る伸びを示していること、(2)香港の人民元預金の規模は、本土人民元預金の0.7%程度にすぎないこと、(3)米ドル預金の預金全体に占めるシェアは3割程度で安定しており、特に米ドル預金が人民元預金に振り替わっている傾向は認められないこと等から、現状、香港が人民元によって支配されるような傾向は認められないとしている。また、同レポートは、(1)現在の人民元の蓄積は、一方的な人民元相場上昇期待に基づくもの、(2)国際取引での米ドル使用には惰性(inertia)がある、(3)本土の人民元改革の深化で、人民元貿易決済での本土銀行の利用が高まることから、香港での人民元預金の拡大にはおのずから限界があり、一定のところで安定するとしている。

(政治的意味合いの強い香港ドル)

こうした議論を見ると、一方で、国際金融センターとしての香港のステータス強化という観点からは、オフショア市場の発展が肯定的に論じられ、他方で、香港ドルに影響が及ぶことはないという観点からは、本土での人民元改革が進む中で、その発展にはおのずから限界がある点が強調されるという、やや相矛盾する交錯した議論が展開されており、それだけ問題の複雑さが現われているように思われる。

香港ドルは、「1国2制度」の根拠である香港特別行政区基本法でその存在が定められており、その扱いには大きな政治的インプリケーションが伴う。香港が本土に返還されて以降、「香港の本土化」が話題となってきたが、オフショア市場を梃子にした人民元の国際化は、経済面での「本土の香港化」の突破口であり、これが深化すると、経済面ではオフショア市場としての香港の役割は薄れてこよう。しかし、政治面での「本土の香港化」が進まない限り、「1国2制度」下での香港のステータスは逆に維持され、したがってその基礎となる香港ドルも制度的には維持される可能性が高い。その場合、香港ドルは一種の政治的な象徴となり、そうであるが故に、経済的にはすでにより意味があると思われる人民元ペッグに移行することも困難になって、ドルペッグの基礎となっているカレンシー・ボード制が維持され、それによって人民元への貨幣代替がより進んで、経済的にみた存在意義はさらに低下してくるという矛盾に直面することになるのではないか。ひとつの選択肢として、カレンシー・ボードを見直して人民元も含めた何らかの通貨バスケットに移行すれば、ある程度貨幣代替の進行を食い止めることは可能かもしれない(本ウェブサイト2011年4月28日付アジアンインサイト「香港ドルの行方—意義が薄れつつあるカレンシー・ボード制下の米ドルペッグ—」参照)。

もちろん、オフショア市場としての役割が薄れても、香港には国際金融センターとしての制度インフラや人材等の面で、これまで蓄積してきた優位性はあり、引き続き中国を代表する金融センター(のひとつ)として機能し続けることは間違いないだろう。しかし、香港ドル、ひいては香港を将来的にどう位置付けていくのかを考えることは、香港特別行政区にとってはもちろん、本土にとっても回避できない問題になりつつあるように思われる。


このコンテンツの著作権は、株式会社大和総研に帰属します。著作権法上、転載、翻案、翻訳、要約等は、大和総研の許諾が必要です。大和総研の許諾がない転載、翻案、翻訳、要約、および法令に従わない引用等は、違法行為です。著作権侵害等の行為には、法的手続きを行うこともあります。また、掲載されている執筆者の所属・肩書きは現時点のものとなります。

関連のサービス