格差と篤志

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2006年11月06日

  • 山中 真樹
「格差社会」への対応が国民的な関心事となっている。ここもと行われたいくつかの選挙においても、このテーマが候補者・政党間での主要な論点のひとつとなっていた。

 一部には「格差ゼロ社会」が望ましいという主張もあるようだが、前世紀の歴史をふり返ってみても現実的とは思えない(もとより、本稿での「格差」は経済的な格差を論じているのであり、「法の下の平等」に基づき個人が法的に平等に取扱われるべきは当然である)。努力したものが多く得るのはある意味当然であり、それなしでは各人が向上するインセンティブも無くなってしまう。一方で、国民として誰もが幸福に生きる権利を有する。結局は社会全体においてどの程度の格差が許容されるのかの問題であろう。例えば、低所得層と高所得層の格差は1対10程度が望ましいとか、1対20程度までは許容されるべきであるとか、最低限の社会的なセーフティ・ネットさえあればあとは無制限でよいといった具体的なコンセンサスを得るべく国民的な議論を深める必要があろう。

加えて、格差是正のための再分配を国のみが行うべきかという論点もあろう。最近、「金を稼いで何が悪い」式の発言が糾弾されている。違法行為で稼ぐのは論外であるが、それと同時に稼いだお金の使い方にも世間の指弾を浴びる原因があるのではなかろうか。

先般、アメリカの大物投資家が兆円単位の個人資産を慈善事業に拠出すると伝えられた。巷間、アメリカでは機会の平等さえ確保されれば、あとは弱肉強食の「市場原理」が支配しているとの言説が日本では見うけられるが、それとは正反対のアメリカ社会の懐の深さを垣間見た気がする。国家によるのではない再分配システムも存在するのである。

わが国でも、戦後のある時期までは篤志家、名望家と呼ばれる存在があったように思うが、いまでは言葉自体が死語になりつつある。国の税金等による所得再分配は全面的に否定されるものではないが、どこか無機質である。篤志には尊敬や感謝が伴う。若者が「お金を稼いで篤志家を目指します」といえる社会こそが、物質的にも精神的にも豊かなのではなかろうか。

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