歴史から何を学ぶのか

2015年11月4日

歴史認識問題で東北アジアの隣国との軋轢が続いている。と言ってもわが国から問題にしているわけではなく、先方が一方的に問題にしている感が強い。特に韓国は安倍政権の歴史認識を問題視し、現政権発足後3年近く経って、ようやく日韓首脳会談が開催される運びとなった。安倍政権になったからといって、わが国の国民の歴史認識が従前と比較して大きく変わったということもないと思うが(いわゆる右翼的、左翼的それぞれの意見・主張が昔からあるが、政権交代を機に転向した人が多くなったとは寡聞にして知らない)、仮に先方の求める歴史認識を全面的に認めたところで、お互いにとって建設的な未来が築けるのだろうか。

歴史的な話に限らず、同じ事象であっても、その立場や関係の度合いなどによって、当該事象への「認識」は異なるのが当たり前である。例えば、今夏の全国高等学校野球選手権大会(いわゆる甲子園大会)は東海大相模が優勝したが、決勝戦について、東海大相模関係者は「勝った」、準優勝の仙台育英関係者は「負けた」と表現するであろう。一方、球場の売店に勤務している人にとっては、試合結果よりも客の入り具合の関心が高かったかもしれない。野球に全く関心がない人の場合、大会そのものを「認識」していなかった人もいるかもしれない。野球が嫌いな人は、大会そのものに批判的な「認識」を持っているはずである。かように、立場によって「認識」は異なるものである。

では、歴史認識とは何であるのか。歴史を学ぶとはどういう意味があるのか(※1)

娯楽として歴史小説や史跡などに接する場合を別にすれば、歴史を学ぶ意味は、過去の成功や失敗の要因を分析し、現状や将来への対応策を検討することにある。わが国では、「歴史にifはない」と大上段に語る人が多いように感じるが、ifを考えないのならば歴史を学ぶ意義は半分以下になるのではないだろうか。歴史を踏まえて現状を把握する、あるいは未来を引き出すためには、ifを考えることが必須であり、そのための基礎作業として歴史的事実を検証することになる。教育科目としての歴史は、そのための基礎の基礎であろう。

重要なのは同じ失敗を繰り返さないための対策と行動であり、感情的なやり取りは失敗の拡大再生産を誘発するのではなかろうか。

ここまで記述してきたことは、実は意識せずとも日常的に行われており、我々の業務では必須の作業である。金融市場が大きく変動している時には1929年の大恐慌や1980年代後半のバブル景気などを分析し、現状と比較し、必要であれば対策を構想する。その際、意識的か否かは別にして、ifを構想して過去を分析している。米国でもFRB(連邦準備制度理事会)の元議長のグリーンスパン氏は、在任中のFRBの運営において、日本の1990年代の長期低迷を研究して対策を講じていたと言われている。

ただ、現実の歴史の推移をみると、場所を変え、時を変え、同じような失敗が繰り返されているように思われる。やはり人間はそう簡単には変わらぬものなのかもしれない。そう思いつつも、より良き明日を目指して、歴史を踏まえた現状分析、将来展望、その実現あるいは回避のための方法を探るため、日々努力しているのである。

(※1)歴史家でもある英国のE・H・カーの『歴史とは何か』(清水幾太郎訳、岩波新書、1962年)が多くの示唆に富んでいるのでご一読をお勧めしたい。なお、本コラムは同書の観点に基づいているわけではない。

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