東日本大震災の被災地を故郷にもつ

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2013年04月16日

  • 小針 真一

2011年3月11日に東北地方太平洋沖で発生したマグニチュード9.0の巨大地震は、場所によっては10mもの巨大な津波を発生させ、東北地方の太平洋沿岸部を中心に甚大な被害をもたらした。
死者・行方不明者は合わせて18,564名(2013年4月10日現在、警察庁発表)にのぼり、更に原発事故が重なったこともあって、現在も多くの被災者が避難所生活を送っている。
また原発に関して言えば、廃炉までを30年から40年後とした中長期ロードマップが示され、一旦は収束に向けて動き出したかに見えた。しかし連日の報道にもあるように、停電による冷却機能の停止や汚染水の飽和問題、更には地下貯水槽からの汚染水漏れによる海洋汚染の懸念など、人類がこれまで経験したことのない困難に直面している。

この現実を皆さんはどのように感じていらっしゃるであろうか?
震災直後から、多くのボランティアが全国各地から被災地入りし、更に全国(世界)から多額の寄付金が寄せられた。現在も全国の多くの方々の善意によって東北地方は支えられており、ゆっくりではあるが復興に向け前進している。しかし2年という時間の経過と共に東日本大震災に対する関心は徐々に薄れてきてはいないだろうか。
日本人なら誰もが心の奥底で共有している共通の「想い」があるにせよ、東北地方との縁やこれまでの人生における東北地方との関わり方によっても、その「想い」には濃淡があるであろう。

私の故郷は福島第一原子力発電所がある福島県浜通りの「いわき市」に位置している。
私が地元に原発が存在することを意識したのは小学生低学年の頃であり、福島が関東の電気需要を賄うための電力を作っていることについて違和感を覚えた記憶がある。
しかし、故郷に得体の知れない恐ろしいものが存在することは自覚しつつも、それは動かしがたい事実として既に存在しており、当時は安全なもの(安全なはず)として認識していたこともあって特段気に留めることもなかった。
ところが原発の安全神話はもろくも崩れ、今この時も故郷の土地や水、空気は汚染され続けている。

今回津波に襲われた沿岸部は、私が幼少時代に海水浴を楽しんだ美しい海岸である。その海岸を震災発生から1年経過した頃に訪れた。広い砂浜には「立ち入り禁止」の看板が掲げられ、人影はまったくない。1時間程その場に滞在したが、その間に人や車が通過することはほとんどなかった。後ろを振り返ってみれば、道を挟んでそこにあったはずの多くの建物は基礎部分を残すのみであり、まさに過去の記憶にある風景は一変していた。
少し移動して塩屋崎灯台のふもとにある「美空ひばり記念歌碑」を訪れた。言わずと知れた観光名所であり、特に団塊世代に人気がある。多少の賑わいを期待していたが期待は裏切られた。2軒連なる土産店はどちらも閑散としており経営は厳しいと推察されたが、おかみさんの笑顔が印象的だ。試食のサービスを受けながら雑談を楽しみ、わずかばかりの土産代を支払ってその場を後にした。

また、震災から1年半後には中学時代の同窓会が開かれた。今でも多くの同級生が地元に残っていることもあって懐かしい顔ぶれが並んだが、当時の親友の1人も1年程遠く離れた見知らぬ土地で避難所生活を送り不自由な思いをしたらしい。地元はライフラインの寸断により特に水の入手が困難だったが、避難所では自衛隊の活動により水の入手が比較的容易であったため、避難所に避難できた人はまだ良かったようである。
一方、避難が難しいお年寄りの多くは自宅に残る選択をせざるを得なかった。(いわき市は原発からの距離の関係で避難指示区域ではない)
私の父は地元地域の自治会長を務めていた関係で自ら避難することなく、地元の住民(多くはお年寄り)のために飲み水を始めとした生活物資の確保のため毎日奔走した。指定避難所以外では自衛隊の直接的な援助は受けられないため、水の入手・運搬・住民への給水作業は、当時のガソリン不足に加え、真夏の炎天下での過酷な作業環境も相まって苦労したそうである。これは後に父から聞いた話であるが、当時の私は何も知らず父に避難するよう電話で説得する毎日だった。
2012年7月に父は癌で亡くなったが、今となってはその時に僅か一日でもボランティアとして現地入りし、父をサポートしてあげられていたらと後悔している。同様に地元を離れ、自分の無力さに忸怩たる思いをした同胞も多いことだろう。

今回のコラムでは被災地を故郷にもつ私のエピソードをご紹介させて頂いたが、冒頭でも触れた通り、被災地では死者と行方不明者が18,564名にものぼり、そこにはそれぞれの方(遺族も含む)のエピソードが存在する。また、避難所生活をしている方々のエピソードともなれば更に膨大な数になるであろう。
「被災地の復興なくして、日本の復興はありえない」
どこかで聞いた台詞であるが、被災地が必要としている支援がタイムリーかつ有効に実施されるよう政治には期待したい。

では、あらためて「被災地の復興」のために我々に何ができるのか?
被災地のために一度も汗をかいたことのない私には偉そうな事を言う資格はない。更に問題のスケールがあまりにも大きすぎて、一個人で何ができるかを考えると萎縮してしまう。
しかし、全ての人がそれぞれの立場や役割に応じて、それぞれの「想い」や「英知」を結集させ、被災地のために何ができるかを考え、行動するしかない。
常に被災地に心を寄せ、ちょっとした折に、それぞれの「想い」を何らかの行動に移すだけでも復興のエンジンとなり得るのではないだろうか。
もちろん些細な事でもかまわない。

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