500年前に学ぶアジアとのお付き合い

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2010年05月20日

  • 川村 雄介
わが国の歴史を振り返ると、アジアとの踏み込んだ関係構築に一生を捧げた日本人が多くいた。アジアと日本のお付き合いの深さを物語る話を思いつくままに上げてみると、古くは遣唐使として海を渡り、玄宗皇帝に仕えた54年間の唐生活の末、異郷で生涯を終えた阿部仲麻呂が著名だろう。時代が下り、17世紀初頭に明国再興をライフワークにした鄭成功の母親は日本人だった。清国末期、民主化運動に生涯を懸けた孫文を支持して命を張った宮崎寅蔵をはじめとする志士たちも忘れられない。

とりわけアジアとの豊穣な関係が築かれたのが朱印船貿易時代だった。500年も前のことである。この時代、多くの日本人が中国や東南アジアとの交易に乗り出し、山田長政のようにタイに住んで現地の政争に身を委ねた人物すらいた。東南アジアにはいくつもの日本人町が造られた。南蛮船の主要な船員は日本人だったとも伝えられている。

そんな時代の意外に知られていないエピソードをひとつご紹介してみたい。

この頃、日本では長い戦国時代がようやく終息しつつあった。肥後の武士、荒木宗太郎は、これからはビジネスの時代だと見通し、弓箭を捨てて長崎に移った。宗太郎はベトナム貿易に注力して大成功を収めるとともに、当時の安南国王の信頼を勝ち得た。宗太郎の帰国の間際、王が訊ねた。「功績大なる貴殿に心ばかりの進物をいたしたいのだが」固辞する宗太郎に構わず、王は進物を届けさせた。進物の届け人はまだうら若く輝くばかりに美しい娘。だが、進物らしきものは持っていない。いぶかる宗太郎に、戸口の帳を開けた王がにやりと一言。「わが母方の姪じゃ。彼女を進呈いたす」

安南王族の姫、王加久(ワカク)を乗せた宗太郎の船隊は豪奢に装飾を施され、長崎の港に帰着、船から降ろされた嫁入り道具の華美さと多さは長崎人を驚愕させたという。いまも長崎くんち祭の人気出し物「朱印船」として往時が偲ばれている。

数年後、王加久は宗太郎との一粒種を伴って里帰りの準備に余念がなかった。そこへもたらされた報が鎖国令だった。王加久はついに故国の土を踏むことがなかった。長崎の人々は王加久を大切にして、怪しげなベトナム語で彼女の無聊を慰めた。彼女も片言の日本語ながら終の棲家になじんでいった。宗太郎の死後も王加久は日本人と仲良く暮らしていった。宗太郎の死から10年、王加久にもついに最期の時が来た。青年となった息子に付き添われ、眼下に長崎湾の静かな入り江を見ながら息を引き取ったのは、宗太郎の命日命時と全く同じだったと伝えられる。

宗太郎と王加久のご子孫は、いまでも長崎県下でお元気に活躍中である。

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