ハリルホジッチ監督と旧ユーゴスラビア内戦

2017年12月13日

  • ロンドンリサーチセンター シニアエコノミスト 菅野 泰夫

最近、娘の手伝いをしてくれるようになったナニーさんは、旧ユーゴスラビア出身である。家が近所で、彼女の夫が同国の元プロサッカー選手ということもあり、サインをもらいがてら家族全員で遊びに行った。日本で旧ユーゴスラビア出身のサッカー選手と聞いて、真っ先に思い浮かぶのはハリルホジッチ日本代表監督であろう。偶然、欧州遠征での同監督率いる日本代表の試合を見にいく機会もあったことから、久しぶりにサッカー談義に花が咲くことを期待していた。

家に着くと、大学生の2人の娘さんが出迎えてくれた。2人ともロンドンの名門大学で学んでおり、うち1人は難関とされるBBCでのインターンを勝ち取ったそうである。彼らは、英国で成功しつつある娘たちの活躍を誇らしそうに語ってくれた。またハリルホジッチ監督については、同じ祖国のプロサッカー選手として、非常に尊敬しており、いまでも旧ユーゴスラビア地域では英雄視されているそうだ。

小中高とサッカー漬けであった筆者は、昔は少しだけサッカーに自信があった。高校では11人のチームメートから3人もJリーガーを輩出するなど、そこそこの強豪でかなり厳しい練習もこなしていた。ただレギュラーをキープするのが精いっぱいだった筆者は、当然プロ選手にはなれなかった故に、憧れをもって元プロ選手の彼の話に耳を傾けた。ただ、より興味深い話は、彼のプロサッカー選手時代の話の後だった。約20年前に戦争難民として幼い娘を抱えて、命からがらロンドンに避難してきたときの話だ。

旧ユーゴスラビアは連邦解体の過程で、1991年から2001年にかけて内戦が勃発した。国連やNATOの介入により最終的には終結したものの、凄惨な戦いと多大な犠牲者を出したことで知られている。(彼らが住んでいた)現在のコソボ共和国は、セルビア国内のコソボ自治州であった1991年に独立を宣言したことからセルビアとの武力闘争が始まり、1999年に収束するまでにコソボ自治州からは近隣のマケドニアだけでなく、英国を含め西側諸国へ大量の戦争難民が避難のために押し寄せたといわれている。

当然ながら、まさか遊びにいった先が戦争難民の方とは思ってもみなかった。祖国を捨てる理由は人それぞれであり、旧ソ連崩壊のときにも、体制崩壊によりやむを得ず、多くの社会主義圏の人々が祖国を後にしている。彼らも何としてでも祖国にとどまりたかったそうだが、連日続く銃声と空襲のさなか、子供の将来を考えれば、祖国を出ざるを得なかったとのことだ。ハリルホジッチ監督も過去のインタビュー番組で同様の状況にありフランスに避難したと語っていたのを今更ながら思い出した。

ただ英国の制度では、難民といえども発給されたビザには期限があり、それまでに生活基盤や年収基準をクリアしなければ、強制送還されるリスクもあったという。幼い娘たちを戦地に戻すわけにはいかないため、懸命に努力して働いた様々なエピソードを教えてくれた。赤ん坊のころから、懸命に働く両親の背中を見て育ち、教育や勤勉さの重要性を言葉にせずとも教えられた子供たちが、ロンドンでの成功に向けて努力している姿を目にし、頭が下がるばかりだった。彼らいわく、毎日、誰かが助けてくれることを願って生きていくことはつらいが、それ以上につらかったのは、異国では自分があまりに無力なことを実感したことだったそうだ。

帰り道、戦争難民の置かれた厳しい現実を憂う半面、その思いを子供たちがしっかりと受け止め成長した姿は、戦争の悲惨さをわずかではあるが忘れさせてくれた。戦争難民の厳しい境遇と、それにも屈せず懸命に生きていく意思を直接感じる貴重な経験となった。

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