パブリックとソーシャル

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2011年08月22日

  • 岡野 武志
「公共」という言葉を英語に置き換えるとき、たいてい「パブリック(public)」が使われる。公共機関や公共事業もパブリックになる。しかし、翻って「パブリック」を「公共」に置き換えると多少違和感がある。パブリック・コースは、市町村などが運営する公営ゴルフ場とは限らない。パブリック・コメントも、意見公募手続に基づくコメントであって、公共のコメントという意味では使われない。

政府が社会システム全体を管理してきた日本では、「公共」は長らく「政府」とほぼ同義に扱われてきた。一方、「パブリック」には、政府の規制や私人の独占を離れ、誰もが利用できるというニュアンスがあり、むしろ「公開」や「公衆」に近い。ところが、政府による規制が行き詰まり、社会システムの基軸が市場の規律や自己責任に移るに従って、新しい「公共」やそれに近い意味での「パブリック」の使用頻度が高まっている。

「パブリック」には、暗黙のうちに統括者の存在が意識され、ある種の規範性や画一性が潜在している。個々の参加者は、一定の手続きを経て「パブリック」に参加することが許容されている場合が多い。従って、統括者側に何らかのメリットがある限り、限られたわずかな参加者だけでも、「パブリック」は存在し得る。これに対して、近年拡大している新しい「ソーシャル」では、一人ひとりの自発的な参加によって、システム全体が形成される。多数の能動的な参加者がなければ、「ソーシャル」は成立しない。

ソーシャル・メディアやソーシャル・ビジネスなどでは、多数の参加者の行動が、活動の質を高め、効果を広く拡散させ、社会に影響を与える。進化した「ソーシャル」は、参加者が自律的にルールを作り、機能を生み出す。そのため、機能の悪用者や無関心な傍観者、フリーライダーなどが大勢を占めれば、統括者を持たない「ソーシャル」は、たちまちその機能を失ってしまうことにもなる。

民主主義を前提とする社会や経済には、「ソーシャル」の性質が内在している。働いているとき、物を買うとき、投資するとき、投票するときなど、自ら意識するか否かにかかわらず、国民一人ひとりのあらゆる場面での行動が、全体の趨勢を決める。そして、その責任は、いつか必ず国民が負わなければならない。リーダーシップが失われた社会や経済では、自発的・能動的な「ソーシャル」が果たす役割は大きい。

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