ロシア万華鏡

第11回 変わる「ピーテル」

2007年8月21日

7月のサンクトペテルブルグの涼しさは心地よく、東京の蒸し暑さを忘れさせてくれる。今回私は、調査の都合で、ここに拠点を置く投資ファンドのマネジャーに会うため、モスクワから西へ向かい、サンクトペテルブルグに来たのである。空港に迎えに来たホテルの車の運転手が「観光ですか」と挨拶代わりに尋ねてきた。「仕事です」と答えると、彼はあっけなく私に関心を失くしてしまった。


ピーテルは観光地か

イサク聖堂

ソ連時代にレーニングラードという名前を持ったこの街は、プロレタリアートが闘った歴史と、機械製造業を誇る土地柄だった。私がこの街を最後に訪れたのは大学時代だったが、その時のこの街の印象は、ぼかしが入りすぎた写真の北空のように、どんよりした灰色のものであった。

観光地になったのか。時代が変わったことを思い知らされた私は、黙り込んだ運転手との間にどことなく気まずい雰囲気が漂うタクシーの窓から、流れていく景色をぼんやりと眺めていた。


懐かしい佇まい

日本にながくいて、サンクトペテルブルグを「サンクト」で呼ぶのには慣れてしまった私は、アポイントメントなどで向こうにいるロシア人と話すときに「サンクト」を言わないように気をつけているのである。使わない理由は、別に失礼なことなどがあるわけではなく、単純に、通じないだろうと思うからなのだ。ロシア人はサンクトペテルブルグを「ピーテル」と呼ぶ。愛称なのか、略称なのか、はっきりはしないが、愛称にきわめて近い略称であると私は思う。略称なら「サンクト」で差し支えないし、むしろそれが自然だ。しかし、わざわざ「ピーテル」と呼ぶということは、ピョートル大帝の街であるという意味が込められているのだろう。人の愛称のように、街の名前を無造作に真ん中へんで切り取って使うのもロシア人らしい。例えば、アレクサンダーという人名の愛称は、「アレックス」にするのが自然だろうけれど、ロシア人のアレクサンダーのなかに「アレックス」と呼ばれる人はどれぐらいいるだろうか。とても少ないと思う。ほとんどのアレクサンダーは、後半の「サンダー」の部分から来ている「サーシャ」という愛称で呼ばれている。

この街は人格を持っているかのようにロシア人にピーテルと呼ばれ、不思議なくらい深く愛されているのだ。

ああ、それにしてもピーテルは変わった。タクシーの窓の外に、著名な建築家やアーティストが手がけた数々の宮殿が流れすぎていくのを眺めていると、どうやら昔のプロレタリアートの支配の面影がそうとう希薄になってきたと感じる。


美しい街、力強い経済

サンクトペテルブルグはロシア文化の黄金時代を築いた街であり、ロシア人のアイデンティティーになくてはならない存在だ。プーシキン、ドストエフスキー抜きではロシアの文学のみならず世界の文学も語れない。ヨーロッパの有数の美しい都市であるサンクトペテルブルグは今なお野外美術館のようなものだ。世界三大美術館の一つであるエルミタージュ美術館、ロシア美術館、冬宮殿。観光地であるのは、もっとも自然な姿なのかもしれない。


冬宮殿の前で

しかし、私は今回、観光ではなく(運転手さん、がっかりさせてごめんなさい)、ここに仕事で来ているのだ。サンクトペテルブルグはもう、観光地なだけではないからである。トヨタ、日産、スズキという名高い日本の自動車メーカーや、GM社がサンクトペテルブルグのシュシャリ産業地区で工場を建てている。あだ名をつけるのが早いロシア人は、この地域をもう、「ロシアのデトロイト」と名づけている。ロシアにとっては、外資の力を借りて、ロシア国内産業を発展させる政策は、石油輸出依存の成長パターンから脱出するための重要な戦略である。

それにしても、世界のトヨタのロシアにおける絶大な人気ぶりには驚く。

ロシアの経済紙『ベドモスチ』(2007年8月1日)によれば、ロシア国内市場では、今年初めて、トヨタ自動車の売上高がロシア国産自動車ラーダの売上高を上回る見通しになった。国産車より外車が売れるという転換は、まちがいなくロシア人の購買力の上昇を示している。けれど、それだけじゃない。トヨタの人気がやはり凄まじいのだ。「行列」という言葉がロシア人の辞書からほとんど消えた今でも、トヨタカローラを購入するためのウェイティング期間、つまり「行列」は8ヶ月から1年の間である。

そう、日本企業はサンクトペテルブルグの経済発展にとってはなくてはならない存在となりつつあるのだ。サンクトペテルブルグと東京を結ぶ直行便が開始されるのも、時間の問題であろう。


帝政ロシア時代の取引所
(現在、中央海軍博物館)

しかし、どうやらサンクトペテルブルグは、経済発展を「ロシアのデトロイト」だけで終わらせるつもりがなさそうだ。今年6月、サンクトペテルブルグで開かれた国際経済フォーラムには65カ国からの9000人が参加し、ボーイングやスホイ航空機製造会社、ボルボ、スズキやプジョーの自動車メーカーなどの、世界的なリーダーである企業の間で総額135億ドルの合意書が調印された。大成功を収めた今年のフォーラムは、早くも来年の日時が発表されている。

まだまだある。年内にここでロシア産の原油先物取引所を開設することが決まった。取引が電子化されるのとは別に、場所は帝政ロシア時代の取引所(現在、中央海軍博物館が入っているが、次期に移転される予定)になることも決まった。


夕立の空

そうなると、サンクトペテルブルグは、ロシアの文化首都だの、第二首都だの、のんきなことを言っている場合ではなくなる。この調子でいけば、サンクトペテルブルグがロシアを世界と結ぶ政治経済センターになりかねないのだ。実際、もうなりつつあるのである。

そういう結論に至ったモスクワっ子の私は、ちょっぴりさびしい気分になる。けれど、私はやはり、昔も今もピーテルが大好きだ。今の方がより好きなのかもしれない。佇まいの素晴らしさを残して、現代的な力をつけようとしているこの街の新しい雰囲気がとてもいい。

「友情は、10年会わなくても保てるものだ」と、私は、いつか古い友達に言われたことを思い出した。「愛情は、よりはかないもので、そうはいかないけど」とその友達が言った。そうだろうか。久しぶりにサンクトペテルブルグと再会を果たした私は、強い愛情だったら友情にまけないよ、と帰りの飛行機のなかで呟きながら、うとうとしはじめた。

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