ロシア万華鏡

第8回 エリツィン前大統領を偲んで

2007年5月21日

2007年4月23日、ロシアの前大統領ボリス・ニコラエヴィッチ・エリツィンが心不全のために亡くなった。享年77歳であった。


こういう時に「運がいい」というのは不謹慎であるが、ロシアの現代史に残るこの日に、私は偶然にもモスクワにいた。ちょうどこの日に、毎年(といっても今年で2回目だが)モスクワで行われるロシアの証券業界の会議に参加するため、成田発JAL441便でモスクワ時間の午後3時過ぎにシェレメチエボ空港に着いたばかりであった。月曜日であったせいか、いつもは行列のある入国手続きのブースに並ぶ人は少なく、30分程度でパスポート・コントロールを済ませて、空港の出入国手続きのエリアから外に出ることができた。

シェレメチエボ空港は、入国の手続きだけではなく、預けた荷物がコンベヤーに載せられて出てくるのが遅いことでも有名である。そのため今回は、このロシアの玄関とは出来るだけ早く別れるために、荷物もキャビンサイズのキャリーバッグにした。多少重くて不便でも、暗くて無愛想な空港を早く後にするメリットを考えればお釣りが来る。

ホテルに向かう途中、タクシーのカーラジオから流れていたロシアのポップスの雰囲気にも特に変わった点は無かった。街にも変わりはなかった。もっとも、ポップスのリズムと頭痛との境界線が希薄になっていた時であったので、何か変わったことがあるかどうかを考えてもいなかった。ソ連時代は国のリーダーが死んだ場合の正式な発表の前には、テレビやラジオで通常の番組の変わりにクラシック音楽を流すというしきたりがあった。この日には、これと似たようなところや、その気配すらなかったことに、後で振り返ってみて気が付いた。時代が変わったとともに、亡くなったエリツィン前大統領は既に現役ではなかったことにも関係しているのかもしれない。

しかし、夜のテレビのニュース番組では、ロシアの最初の大統領の半生を振り返り、若いころの地方の共産党の幹部のときの映像や、国民代表大会でのゴルバチョフとのやり取り、また、1991年8月のクーデターで国民的ヒーローになったときの画像などが、ノスタルジックに白黒とカラーで入れ替わり立ち替わり映し出されていた。旧体制の解体作業が行われた1990年代においては彼と同志であった、チュバイス氏やガイダル氏とのインタビューも流れていた。プーチン大統領は、国葬の25日を「国民の服喪の日」に定めたと発表した。インタビューと演説には、「時代」と「自由」の言葉が繰り返し使われていた。


25日の国葬の際は、弔問に数千人が訪れた。渋滞が常であるモスクワの道路に、その日はさらに規制がかけられ、私の回りにも影響がでた。「国民の服喪の日」のため、会議が中止されると思って欠席する人も多数いた、と主催者側は戸惑いを隠せなかった。


皮肉にも、建設が専門であった前大統領は、古い体制の解体作業に専念するよう運命づけられていた。激動や矛盾に満ちた90年代であったが、あれがなければ今よりも住みやすい国になったのか、逆に今より絶望しか与えない国になっていたのか。引き返すことはできないが、代替のシナリオもなかったと思う。矛盾に満ちながらも、時代を作り、時代を背負ったエリツィン大統領がいなかったらどうなっていたか。有りもしないことは判断ができない。ただ、一つだけはいえる。希望のある今のロシアはなかった。

個性が強く正直に生きていた、あるいはそのように見えたボリス・ニコラエヴィッチ・エリツィンという歴史的な人物がいたから、今のロシアがある。


葬儀の翌日の26日、大手の新聞『モスコフスキー・コムスモレッツ』がオンラインのアンケート調査の結果を発表した。エリツィン前大統領を偲んで何をすべきかについて、次の回答が得られた。

  • エリツィン記念の勲章を制定する(3%)
  • 記念碑を建てる(7%)
  • 彼が生まれた村に彼の名前をつける(7%)
  • モスクワのある通りを彼の名前に改名する(12%)
  • なにもしない(71%)

この回答を見て私はこう思った。人類を愛するよりは、一人の人を愛し続けることの方がはるかに難しい。これと同じように、歴史の流れを変えるよりは、その歴史に生きていた人々、一人一人を幸せにすることの方がはるかに難しい。こんなことを、アンケートが教えているような気がしてならないのである。

ご冥福を祈ります。

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