ロシア万華鏡

第7回 モスクワのベジタリアン

2007年4月23日

春に向けて日差しがやや眩しく感じられるようになる頃、キリスト教世界にはクリスマスを超える最大の祭りが訪れる。キリストがその死から3日目に復活したことを祝うイースター、つまり復活祭である。復活祭は、年によって日付が変動する「移動祝日」であり、春分後の最初の満月の後の日曜日(イースターサンデー)に祝う。今年は4月8日がそうだった。

しかし、熱心な信者ではない私は、復活祭についてそれほど関心があったわけではなかった。2月末の土曜日、ロンドン・ヒースローから真冬のモスクワに向かう飛行機に乗るまでは。


ブリティッシユ航空のビジネスクラスシートに身を埋めた私の心の虫はそわそわしていた。何を隠そう、その小さな不安の種は「モスクワで何を食べるか」にあった。

実は、今回のモスクワ出張では、空き時間を利用して、ロシア人の食生活、主として外食について調べようと考えていた。

思えばソ連時代の外食は実に寂しいものだった。たくさんのみすぼらしい食堂と、けばけばしいだけで品のないレストランが数軒。それがすべてだった。しかし、この数年で外食の状況が様変わりしたことは、ロシアに住む知人からも再三聞かされていたし、自分自身でもロシアに行く度に感じていたことだった。そこで、次にモスクワに行く機会があれば、自分の味覚をしっかり働かせ、ロシア料理や民族料理のレストランを回って、自分の目で確かめたいと思っていたのだ。

だが、実際にモスクワ行きの日が近づくにつれ、だんだん私は気が重くなってきた。というのも、私はここ数年は夕食を控えるようにしており、しかも、ほとんど肉を食べないベジタリアンに変わったためだ。

なぜ、ベジタリアンになったのか。

きっかけは、言うまでもなく、「ロシア人の女性はどうして年をとると太るの」というお決まりの疑問文が「君、太っているね」という肯定文に変わることを恐れたためである。そんなとき脳裏をよぎったのが、小さいころ、近所に住むお祖母ちゃんがよく「朝ごはんは自分で食べて、昼ごはんは友達と分けて、夕飯は敵に譲りなさい」と言っていたことだった。当時の私にはピンと来なかったが、お祖母ちゃんが天国に行ってから数十年が経って突然、その言葉が蘇ってきた。シンプルだが、理屈は通っている。これこそ、ロシア人の食文化の知恵というものではないだろうか。そこで、敵のいない私は、自然と「夕飯抜き」の食生活に移行することになった。そして、たまに敵らしい人が現れても、一緒に夕飯を食べないことを原則としている。

そうしているうちに、だんだん肉を食べたいとは思わなくなってきた。最近は、魚料理も月に1、2回程度。というわけで、「ロシア料理を求めて」の毎晩のご馳走漬けは想像するだけで、重荷となってしまうのである。


モスクワでまでの3時間のフライトでは、心穏やかに過ごそうと決め、うとうとしはじめた矢先だった。横並びの席から、ロシア人男女の会話が聞こえてきた。

「もうポストなんだから」と女性が拗ねている。声のほうを見ると、機内で出された軽食のハムサンドを前にして「これは食べられないわ」と言っている。

「ハムを外せば」と男性は冷静に言う。「ところで今年のパースハはいつかな?」「4月8日なの。クリーチを焼く。美味しいものいっぱい食べるわ」。女は夢でも見ているように上空に目を向けていう。

「パースハ」Пасхаと「ポスト」Постとは何か。

パースハは、ロシア語で「復活祭」を意味する。もっともこれはロシア語ではなく、ギリシャ語の「pascha」に由来する言葉である。「ポスト」とは、パースハを前に心身を清めるため、食事を制限する期間をいう。この期間中に動物系のもの、肉、牛乳、卵と魚は食べてはいけないしきたりになっている。いわば「精進料理」の時期である。ポストは、年に数回行われるが、パースハ前のポストは48日間と長い。名前も特別で「大ポスト」Великий Постと呼ばれる。

大ポスト中は、肉、牛乳、卵を食べてはいけないうえ、月曜日から金曜日まで、特に宗教の祭日がない場合、植物系のオイルを使う料理も禁じられている。魚料理は期間中にたった2回だけ決まった日に許される。野菜と穀物を中心とした精進料理は、パースハを前にして昔からロシア人の食卓に並んでいたのであった。

ポストが終了すると、動物系の献立が解禁され、ロシア人は大好きな肉料理をたらふく食べることができる。かつて裕福な家庭では、我慢した日数に合わせ、48品の料理が出ることもあったという。また、パースハ特有の料理もある。殻を鮮やかな色に染めたゆで卵(パースハ卵)とクリーチКулич(円筒状の菓子パン)である。

偶然に聴き合わせた会話に、私の脳は反応した。「何年ぶりかしら」。クリーチという言葉の響きが遠い昔から蘇ってきた。旧ソ連時代、宗教と縁遠い実家でも、春の日にはクリーチが焼かれていた。その甘い香りに染まった夕暮れが大好きだった。干し葡萄がふんだんに入り、スパイシーなサフランとカルダモンが織り成す特別な味。それは、幼いころの記憶と重ね合う裏地のようなものである。


ロンドンで聞いた天気情報は「モスクワは昼間でもマイナス25度、夜はマイナス28度の冷え込み」。しかも、この先もっと寒くなると伝えていた。十数年間そうした寒さとは無縁だった私は怯えていた。防衛のため、オックスフォード通りのスポーツ用品店で40ポンドも出してスキー帽を買ったほどだ。

しかし、モスクワに着いてみれば、天気予報は宝くじ並みに今回もハズレだった。「明日の天気は明後日にお教えします。昨日は曇りでした」。皮肉屋のロシア人はよく気象庁員の物真似をする。予想は外れるからこそ予想なのである。

そして、うれしいことに、ロシア料理についての心配もまた、モスクワの天気予報のように完璧にハズレだった。それは、モスクワ到着の晩、最初に訪れたロシア料理店でわかった。モスクワ音楽大学から歩いてすぐの昔風の店構え。テーブルに案内されて手渡された、分厚い革表紙のメニューブックの1ページ目には「ポスト・メニュー」の文字が並んでいたのである。

ロシア人は信心深くなって、精進料理に励んでいるのだろうか。データをみれば、そうとは言い切れない。ロシアの大手世論調査会社のレバーダ・センターによると、2007年2月調査で、79%は大ポスト中でも食生活は変えないと回答している。この割合は、1998年時点の調査と同じだが、「肉だけを食べない」など部分的に食事制限を守るとしている割合は、98年の11%から07年の15%まで少し増えている。一方、大ポスト中の食事制限を守っているのはわずか2%だ。(2007年3月1日付"Levada")

それでも、今、モスクワのレストランは精進料理のメニューに力を入れている。

政府、つまり、クレムリンの食堂では、07年2月19日からはポストのメニューを導入した。ポスト・ランチの値段は、50~80ルーブル(日本円で250~400円)。メニューは週代わりで、最初の月曜日のメニューは、ピーマンと発酵キャベツのサラダ、ニンニクが入ったキュウリとトマトサラダ、発酵キャベツのシチー(ロシア料理の野菜スープ)、キノコ類と野菜のポテト・グラタン、グリーン・ピースとニンジンの炒め、木苺のキセリー(ロシア伝統的な粘っこい半液状の飲み物。美味しい)、コケモモの実で作った飲み物に、イチゴのコンポートである。献立は牧師と栄養士が献立を考案している。

クレムリン食堂の利用者は議員と官僚あわせて5000人くらいだが、このうち約2000人は、ポストのメニューを利用しているようだ。(2007年2月19日付"Interfax", "MIGnews.COM" )

町中のレストランと居酒屋も精進料理流行りだ。しかも、ロシア料理店だけではなく、イタリア料理、グルジア料理、中央アジアのウズベック料理のレストランもこぞってロシアのポストに貢献している。

イタリアン・レストランでは卵を使わないパスタを用意し、チェリートマトやオリーブとソラマメで和えた新作を出している。お値段は500ルーブル(2,500円)。もっと高いパスタもある。トマトとほうれん草のパスタは、特別なメニューに載っており、720ルーブル(3600円)もする。

ロシア料理系のレストランは、野菜や穀物を中心とした伝統的な精進料理で勝負している。私の訪れた店のメニューを紹介すると、たとえば、トマトとヤマドリタケの入った玉麦のカーシャー(ロシア風の粥)。値段は305ルーブル(1,500円)やや高めだ。

このほか、キャベツとキノコ類が入ったキビのコロッケ(450ルーブル、2,300円)、玉麦が入ったヤマドリタケの一種であるベーリーグリープ(白いキノコ)のスープ(250ルーブル、1,250円)などもある。

遠く日本から来た者として、真冬のモスクワのレストランでヘルシーなメニューを食べられることは、奇跡とも思える。これで、出張するたびにカロリーメイトのお世話になっていた生活には歯止めがかかりそうだ。少しお値段が張るのは気になるが、物価高で世界王者の座に着いたモスクワにいることを考えれば、それはあっさりあきらめよう。


春一番の日にどこからともなく懐かしい甘い匂いが漂ってきている気がした。インターネットでクリーチの古いレシピを探し出し、自分で焼いてみることにした。1回目は失敗したが、2回目は割りとうまくいった。スパイシーな甘いパンは、オーブンでどんどんいい色になってきた。そして、小さなタイムマシンのように、東京の2月の寒さをたちまちに、昔のモスクワの暖かい春の日差しに変えてくれた。

このコンテンツの著作権は、株式会社大和総研に帰属します。著作権法上、転載、翻案、翻訳、要約等は、大和総研の許諾が必要です。大和総研の許諾がない転載、翻案、翻訳、要約、および法令に従わない引用等は、違法行為です。著作権侵害等の行為には、法的手続きを行うこともあります。

お問い合わせ

コンサルティングに関するお問い合わせは大和総研が承ります。

お問い合わせ

コンサルティング

コンサルタント

セミナー