ロシア万華鏡

第6回 新生ロシアにおける証券市場の始まり…90年代の動き(シリーズ第3弾)

2007年3月23日

ワシントン・コンセンサスの経済戦術

1991年12月31日、ソ連は崩壊し、ロシアが誕生した。そして翌1992年からは新生ロシアは市場経済への道を歩み始めた。

ロシアの経済体制移行の永い旅は、米国ワシントンD.C.にヘッド・クオーターをおく二大国際金融機関である世界銀行とIMFが先頭にたって選択された政策(いわゆる「ワシントン・コンセンサス」)の下で始まった。

この「ロシア経済の市場化」政策のコアは「価格の自由化」(1992)と「国営企業の民営化」(1992—1995)の2つであった。当然ながら、この二つの経済戦術は、ロシア経済の発展を通じ、ロシア証券市場の生成にも大きな影響を与えた。


「価格の自由化」は、今までは政府が決めた価格を市場に任せるという意図で進められた。とは言うものの、当時の市場発展の度合いは、開花まで随分と遠く、つぼみすら見えなかった…。この価格自由化政策が実施されてからまもなく、想定を遥かに超えるハイパーインフレが発生し、ロシア財政は深刻な危機を迎え、経済発展は低空飛行を続けた。


「国営企業の民営化」は、市場プレーヤーになるべき民間企業を作り出すため、殆どの国営企業に実施された。まず1990年からは1991年にかけて、主としてサービス業である飲食店などの中小企業の民営化が実施された。そして1992年6月に「ロシア連邦における国営および市営企業の民営化」法が採択され、同年8月には「民営化小切手」と呼ばれた「バウチャー」についての大統領令が交付され、大規模国営企業の民営化がスタートした。「バウチャー」は、国民一人に対し1枚が交付され、これ自体は、自由に売買できる無記名証券であった。その使途は自分が勤める国営企業の民営化の際の株式購入の場合と、他の国営企業の民営化オークションに参加する場合の二通りであった。なお、この「バウチャー」の額面は、国民一人当たりの国の総資産額を指標とし、10,000ルーブルと定められた。

まず自分が勤める国営企業の民営化の際の株式購入では、当該企業の資産価値(92年の査定)10,000ルーブルに相当する株式数を取得する権利が与えられ、これを10,000ルーブル相当となるバウチャー1枚で支払った。

一方、他の国営企業の民営化におけるオークションの場合、入札されたバウチャー枚数に応じて、バウチャー1枚あたり落札される株式数が決まり、その結果バウチャーの価値は変動することになった。たとえば、サンクトペテルブルクにある電動機器工場の民営化の際、14,945株(1,000ルーブル額面)がオークションの対象となった。このオークションに参加したバウチャーの枚数は結果的に13枚しかなかったため、1バウチャー当りに配分された株数は、1,149株となった。従ってもともと1万ルーブル相当の価値のバウチャー1枚は、114万9,000ルーブル相当の価値となった(В.А.Лялин, П.В.Воробьев «Рынок ценных бумаг» 2006)。


無記名で自由に転売できるバウチャーは市場価格を持つことになった。1992年当初はあまり人気がなく、額面の半分にも満たない4,000ルーブル程度で取引されていた。しかし、国営企業の民営化オークションが活発になるにつれて、バウチャー取引は過熱しはじめ、1993年には45,000ルーブルの高値がついた。

1992年には5万社に至る国営企業が民営化され、1995年にはロシア全体の企業の6割が民間企業となった。

この1992年から1995年に実施された国営企業の民営化は、ロシアの証券市場が市場経済に相応しい市場になるための大きな土台作りとなった。


国家価格委員会にて

当時、ソ連時代の価格ポリシーを担っていた国家価格委員会の価格形成研究所の研究者の一人であった私の立場から「価格の自由化」を振り返ると幾分の思い出がある。1991年に入って早々、「価格自由化」と「インフレーション」の言葉は、当研究所の階段の踊り場で、タバコを吸いながら政治や仕事の話に休憩時間を費やす人の会話の中で頻繁に出てくるようになった。しかし、実際には20代の若い研究員はその二つの表現の本当の意味を必ずしも理解しなかったと思う。なぜなら、「価格自由化」とは、それまでは何十万品目の商品や製品の価格を、政府(すなわち私が属していた国家価格委員会)が毎年算定し、プライス・リストを作成し、全国の工場やデパートなどに送りつけていた。

ソ連の国家価格委員会は、すべての製品、商品からサービスに至るまできめ細かくその価格を算定した。たとえば洗濯機の場合を見ると、原材料である鉄板やネジと塗料の価格、その鉄板やネジと塗料の原材料の価格、それらにかかる運送費、さらには完成した洗濯機の卸売価格、小売価格をぜぇ~んぶ、国家価格委員会がпрейскурант プレイスクラント(プライス・リスト)で定めていた。もちろん、洗濯機だけではない。黒パンも菓子パン、針と糸、ミシンにフライ・パン、トラックやオートバイ、鉄板やパイプなどなど、あらゆる商品・サービスに国家価格委員会が決めた価格の値札がついていた。その価格は命令力を持ち、ソ連経済を運営していた。

プライス・リストは時々見直され、プライス・リストが全面的に更新されることもしばしばあった。

私自身の体験話だが、新米研究員として価格形成研究所に入ってから間もない1989年の出来事であった。人手が足りないとの理由で、国家価格委員会に呼ばれて、一日中コピー機で新規プライス・リストの複製作業に専念させられた。作業に一所懸命に取り組んでいく中、初めて数千枚とも思われた大量な枚数を目にしたせいか、気分を悪くして、コピーの生産性を著しく下げただけでなく、周りの人に心配もかけた。「もう、この人を寄こさないで!迷惑だ!」と、研究所に告げ口の電話がかけられて、職場に戻ったら「役立たず」と言わんばかり同僚に渋い顔をされたこともあり、計画経済における価格形成政策の大変さに身をさらした。


価格の自由化とそれに伴う深刻な財政赤字に陥ったロシア経済に話を戻すと、当時の証券市場は国債を中心として形成された。高インフレ下で財政赤字を国債発行で賄った国にとっては驚くことでもない。この国債市場は、1993年5月18日にモスクワ銀行間外為取引所において短期国債オークションが初めて行われたことで誕生した。1998年の通貨危機でほぼ絶滅に追い込まれたロシア国債市場だが、92年から98年の間は時には年収益率が100%を超えることもあった高収益性の市場であった。


1991年の来日から数年が経った1997年の秋に久々に帰省した際に「民営化」の果実を実感した。まず、ソ連時代には殆ど存在しなかったアットホームな雰囲気のこじんまりした喫茶店の数に驚き、テレビに流れるコマーシャルの派手さに圧倒された。実は、私がロシアにいた頃のソ連時代には、テレビのコマーシャルが全くなかった!この話を日本人の知人にしたときに、「じゃぁ~新しい商品について、どうやって知ったの」と目を丸くされ、この返事に詰まってしまったことを覚えている。だって、「新しい商品」という概念も、コマーシャルと同じように、当時なかったことから説明しないといけなかったから…。


1991年から1998年のロシア証券市場形成

新ロシア誕生から1998年の通貨危機の間は、ロシア証券市場のフレームワーク構成の重要な時期であった。1991年から1995年の間に商業銀行や取引所が登場し、市場インフラ整備が始まった。一方、証券市場に係る規制、証券業務の許認可制度などの制度整備に政府の力が入った時期である。1991年末時点の証券市場の構成を見ると株式が市場の35.7%を占めた。そのうち証券取引所株(25.8%)、商業銀行株(5.4%)などの金融機関株が圧倒的なシェアを占めたのに対して、製造会社株のシェアは2%しかなかった。ところが1995年以降、民営化された企業の株が徐々に市場で流通されるようになって、市場が活性化し、1996年3月には、「証券市場法」が採択され、ロシア証券市場がテイクオフする体制に入った。

1997年に、ロシアのマクロ経済が改善の兆しを見せ、国民にも市場関係者にも、楽観的なムードが広がっていたように見えた。なま暖かだった1997年9月にモスクワへ出張した際、街ですれ違う人には顔の強張りが和らいで、笑い声も聞こえた。喫茶店で寛ぐ人の姿も印象的だったことも覚えている。しかし、そのときロシアにとって新たな試練が待ち構えていた。

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