ロシア万華鏡

第4回 ロシア証券市場の歴史:「一歩前進、二歩後退」の230年余り(シリーズ第2弾)

2007年2月14日

1991年12月31日ソ連が崩壊して、1992年1月2日から新生ロシアは「ショック療法」を用いて、市場経済への移行を図った。そのときになにか起きたかというと、まず、統治されていた価格体制が自由化され、貿易に関する規制も緩和された。さらに今日のロシア証券市場成長の地盤となる国営企業の大規模な民営化が始まった。

ロシア証券市場について語られるときによく耳にする言葉は「まだ日が浅い」である。確かに現代ロシアの証券市場の歴史は10数年あまり。しかし、帝政ロシアの時代まで遡ってみると、その歴史は230年以上あることがわかる。


帝政ロシアでは、ピョートル大帝の時代である18世紀初めにサンクト・ペテルスブルグ(現代:サンクト・ペテルブルク)にできた商品取引所などにみるように、小麦、毛皮といった商品取引が15世紀から盛んに行われていた。しかし有価証券市場は、1769年、政府がアムステルダムで国債を発行したことから始まる。


一方、日本では同じころの江戸時代において、酒田五法といったチャート分析で名高い米先物取引の高度な市場が存在していたものの、債券については、ロシアがヨーロッパ市場で国債を発行してから100年後の1870年にロンドンでポンド建の国債を発行したときから始まった。


ロシアの証券市場の始まりは、日本と同様に外貨建て国債中心であった。1769年にアムステルダムで国債が発行された後にも、帝政ロシア政府は財政に必要な資金調達を頻繁に海外で行っていた。国内向けの起債は、最初の国債発行から40年が経ってから1809年に実現された。その国内向け国債の利回りは、政府条例に定められ、年率で6%だった。当時のロシア帝政政府への信頼が高く、国債のリスクは低いものとみなされ大衆に受けた。さらに、政府は国内国債を普及させ、流通に発破をかけ今後の資金調達を確保するべく国債の保有者に幾つかの特権を与えた。すなわち、国債は担保として活用ができ、税金の支払い手段としても認められた。国債の発行が成功したのを見習って、次第に地方自治体も債券の発行を始めた。しかし地方自治体より国への信頼が高かったため、地方債は国債に勝ることがなかった。このように、国内向けの国債発行は成功したものの、19世紀の半ばまでに国内債券市場での資金調達は、全体の10%に過ぎず、海外向け債券の方が圧倒的な割合を占めた。

株式市場は、帝政ロシアで資本主義の発展に伴って、19世紀の半ばころから形成されはじめた。1836年には「事業会社法」が公布され、民間企業も証券市場への進出をはかった。上場企業の業種は、当時有望であった鉄道、石油、製鉄に金融業と保険会社であった。しかし、資本主義の構築にはヨーロッパより大幅な遅れを取った帝政ロシアにおける株式市場は、その遅れを反映していたかのように債券市場に並ぶほどの発展にいたらなかった。

第一次世界大戦まで、ロシアの証券市場はあくまでも債券それも国債を中心とした取引市場であった。1913年には、ロシアの65の都市に証券取引所があったものの、取引の8割は、モスクワとサンクト・ペテルブルクに集中していた。

証券取引についての情報は、2つの専門紙«Биржевые ведомости»「取引所新聞」および«Торгово-промышленная газета»「商業・工業新聞」に掲載されていた。


第一次世界大戦が勃発してから、ヨーロッパの証券取引所と同様に、ロシアでも証券取引が打ち切られた。1914年末から1917年の間に、証券市場を復活させる幾つかの試みがあったものの、本格的に息を吹き返すことがなかった。1917年10月にロシア社会主義革命が起きたことによって、資本主義経済のシンボルである証券取引所はすべて幕を閉じた。1917年12月23日に、政権に就いたボリシェビキは、証券関連のすべての取引の禁止令を発行した。翌年、1918年初めには、国債も廃止された。


しかし、20年代には、経済政策に行き詰まりを感じ、ソビエト政府は社会主義の中央計画経済の方針から一歩下がって、市場原理を部分的に導入する試みを持った。それは、20年代末までに続いた、いわゆるネップの時期であった。ネップ(НЭП)とは、Новая Экономическая Политикаの略称で、新経済政策と訳す。社会主義経済の一部における市場経済メカニズムの導入の政策であった。そのとき、株式会社という仕組みも再登場し、商品取引所の一部として証券取引所も再び登場した。


ネップは、20年代末までに続いたが、帝政ロシアと同様に、株式ではなく、債券、国債が証券市場のコア的な部分であった。もともと、ネップ時に証券市場の復活のきっかけになったのは、1920年代には発行された国債であった。ソビエト政府による国債発行は、1922年に実現されて、その後も、全部で24回の発行が実現された。当時の国債の利回りは、個人向けで6%、企業向けで8%であった。企業の場合、リザーブ資本の60%は国債購入に当てられるように命じられていた。個人向けの国債の場合には、その購入は当初、任意であったが、流通は思わしくなかったため、財務省の指示によって労働者と会社の従業員の賃金の一部が国債で支払われるようになった。


社会主義経済における市場経済の様子が芽生えたかのように思わせたネップが10年足らずであっけなく終焉を向かえた。しかし、株式会社や株式市場がなくなったものの、債券は根強く生き延びた。1930年から1957年までにソビエト政府は、45回にわたって国債の発行を行った。償還を迎えた国債の返済は政府により延期されたこともあった。1957年には、政府は償還を20年に延長して1977年に返済することを宣言した。戦後のソビエト政府の発行した国債の返済は、1991年に完了した。そして、1991年末にはソ連という、20世紀の最後の帝国が地球上から姿を消した。

1992年から新生ロシアと共に、新たな証券市場の歴史が始まった。しかし、歴史は繰り返されるもので、1998年の通貨危機の際に最も話題に上がったのはロシア国債であった。


次回は、1992年からのロシア証券市場の現状についてのべることにする。

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