ロシア万華鏡

第2回 12月28日のクリスマス

2006年12月20日

クリスマスが本当は「12月28日」でないことに私が気づいたのは、ソ連解体直前の1991年夏に来日してから、2、3年が過ぎてからのことだった。その事実を知って以来、クリスマスシーズンが近づくたびに、私は困ってしまう。今年のクリスマスはいつにするべきかという問題に直面するからだ。


ビザンティン帝国を発祥地とするロシア正教会は1000年の歴史を持ち、帝国ロシアの時代には大きな権力を誇っていた。この数百年の間、人々の生活を制するだけでなく、国内では政治力を、海外でも強力な外交力を行使してきた。東京・御茶ノ水にあるニコライ堂はその一つの証だろう。

しかし、1917年の社会主義革命(帝政崩壊)を境に、ロシア正教会は、無神論教育と共産党の圧力に敗北し、ほとんど見えない存在となってしまった。ロシアでは長い間、クリスマスを祝う習慣も途絶え、わずかに1月14日の旧暦(ユリウス暦)の旧正月だけが、社会主義とは無縁の祝祭日として残された。

そして、新ロシアになってからは状況がまたもや一変する。ロシア正教会はエリツェン政権時に力を取り戻し、めでたく復活を遂げたのである。だが、その前に日本に渡り、平和に暮らしていた私は、そうした変貌からすっかり取り残されていた。クリスマスは「12月28日」だと思い込んだまま。

クリスマスに色づく12月の東京。丸の内のオフィス街を歩いていた私の目に豪華なイルミネーションの光が飛び込んできた。LEDライトの宇宙的な青さに吸い込まれそうになると思った瞬間、私の脳裏にあの十数年前の記憶が甦った。そう、あれはちょうど今と同じ年末の出来事だった。そして、それが「12月28日」のすべての発端だったのだ。


12月のモスクワは冬真っ盛りだ。寒々とした低い空は洗いざらしのブルージーンズの色。若者から見れば、ジャストいい色(«Товарныйвид»「商品的な格好」は当時の流行文句)といったところだろう。大きな雪の結晶が帽子やコートの肩へと舞い降り、その一つ一つがくっ付きながら、襟の上に少しずつ積もり重なっていく。

だが、美しい色彩はそこまでだ。足元をみれば、まるでお粥のようなぬかるみだらけだ。気をつけて歩いても、泥は容赦なく跳ねあがり、ブーツやコートの裾を薄汚い黒に染めてしまう。都会の冬は純白一色ではないのだ。

「一日でいいから、日本語の通訳をやってくれないだろうか」。私の日本語の先生が困り切った様子で電話をかけてきたのは、そんな12月のある日のことだった。

京都から来た日本人技術者2人が、半年前から、モスクワから200キロ離れた田舎町の織物工場で繊維機械の組み立て作業の指導をしている。2人の出張は当初予定よりかなり長引いているのだが、付き添っていた通訳がどうしても外せない年末の所用があるとかで、モスクワへ帰ってしまった。通訳を紹介した立場上、責任がある。どうか代役を引き受けてもらえないだろうか、というのである。

通訳経験のない私に代役を任せるというのはまたとない名誉であり、その興奮を抑えるのに苦労するぐらいだったが、やがて喜びは不安に変わった。私の言語力は、日本語の教科書の1ページに登場する「赤い柿を買う」というフレーズからさほど進んでいないように思えてきたのだ。

だが、後には引けない。いよいよ当日の12月26日。朝一番の電車に乗り込んだ私は自分で自分を勇気付けていた。思えば「背水の陣」という気持ちを初めて覚えたのも、ガチャガチャという音が鳴り止まないあの古びた電車の中だった。

緊張のあまりか、工場に着いた後のことはほとんど覚えていない。長い一日が終わると、工場の門を後に、日本人エンジニアに別れの挨拶をした。2人は薄っすらと微笑みを浮かべ、「日本に来たら京都を案内する」といい、「さよなら」と手を振った。工場長は「特別に」と鮮やかな黄色と青空色の毛糸10玉を手渡してくれた。私は、スタハーノフ運動(労働者が過剰なノルマを達成するよう自発的に超過労働に挑んで、記録を達成する充実感を味わう)の炭鉱労働者のような疲労と達成感に包まれていた。


だが、これで終わったわけではなかった。私は翌日、この仕事の雇い主である日本の商社に報告するため、モスクワ中心部の国際貿易センターに向かった。

ロビーに着くと、ガラス越しの廊下の向こうで、外国企業で働くロシア人エリートたちが慌しく食堂に向かう混雑が見えた。外国人ビジネスマンらは革鞄を抱え、流行のムートンコートを身にまとっていた。

商社の日本人担当者はすぐにロビーに降りてきた。簡単な報告を済ませると、その人は「高田さん(エンジニアの一人)から聞いたよ。ご苦労さん。ありがとう」といった。
「こちらこそ、大変いい経験をさせていただいてありがとうございました」と丁寧な日本語で言おうとしたが、なぜかその言葉が出てこない。あれだけ電車の中で暗記したというのに。

といっても、これは予期せぬ事態ではなかった。用意周到な私はすぐに「Bプラン」に切り替える作戦に出た。


「Bプラン」とは、いざという時に日本語での挨拶が出来なかった場合、相手が喜んでくれそうな英語で挨拶をするという作戦である。

どんな挨拶にするか。お正月は間近ということもあり、まず「Happy New Year!」が頭に浮かんだ。だが、それだけでは、ちょっと味気ない気がした。そこで、当時ソ連にはないが、どうやら西側では重要イベントとされている「クリスマス」のお祝いで飾りつければどうかという名案がひらめいたのだ。

問題は「クリスマス」はいつ祝うものなのかを、私が知らないということだった。身近な人たちも同様だった。父は数学者で、母は大学で化学を教えていた。祖父は政治学の教授であり、祖母は40年の会計キャリアを持った人物だ。つまり、家族は「科学、特に数学しか信じない」ような無神論集団であり、彼らにクリスマスについて問うても無駄だという気がしていた。

それなら、論理的に考えるという手がある。どこかで見た外国製の絵葉書には「Merry Christmas and Happy New Year!」と書いてあった。それから推測すれば、クリスマスは年末にあることはほぼ間違いなく、お正月に相当近いという仮定をたてた。

どのくらい近いのか。これには自分の「常識」をかき集めて考えた。これまでの経験でいえば、学校、大学、研究所の年末の仕事納めは12月28日に集中していた。そして私は、さらに重要な事実を発見した。高校の年末パーティもいつも12月28日だったのだ。これは大きな自信につながった。これは偶然ではなく、かつてのクリスマスの名残りに違いないと閃いたのだ。


そして12月27日、モスクワの国際貿易センターで、日本人商社マンに対して、この論理的思考に基づく「Bプラン」は実行された。
「Merry Christmas and Happy New Year!」。
少し照れながらこう口走ると、彼は嬉しそうな表情で周りを見回し、後ろの狭いところを通ろうとしていた外国人ビジネスマンに「どうだろう、かっこいいだろう」(と私は解釈した)いうかのように、軽く頭を振った。すると外国人ビジネスマンも一瞬足を止め、笑って頷いたのだ。
私は確信した。やはりクリスマスは「12月28日」だったのだ。


正式なクリスマスは12月28日ではないことを知った時、自分の心に気持ちよく住み着き、一緒に日本に渡ってきた「12月28日のクリスマス」を是正するのは、少し切なかった。だが、仕方がない。クリスマスは12月25日なのだから。

そして、数年前の年末、私は東京のデパートでクリスマスプレゼントをたくさん買い込み、ロシアに里帰りした。

12月24日のクリスマスイブに、モスクワの家族の前に登場し、一人一人にプレゼントを手渡すと、皆の満悦な顔を眺めながら、ゆっくりワイングラスに口を近づけたのだ。すると、大きなテディベアを抱えた6歳の姪っ子マーシャが寄ってきて、こう尋ねたのだ。
「ねぇ、どうして? どうして今日なの? お正月はまだでしょう」
「どうしてって…」。私は絶句した。
混乱して、弟の目を探し、助けを求める。「だって、クリスマスでしょう。ねぇ、今日はクリスマスイブでしょう」。自分でも自信が薄れていくのを感じ、言葉が弱くなっていた。
台所のオーブンの前で慌しく動いていた母がリビングに顔を出し、明るい声で「クリスマスは1月7日だよ!」と告げた。
そうだった。ユリウス暦を使うロシア正教のクリスマスは、西洋のクリスマスより2週間遅い1月7日なのだ。


銀座の街飾りはクリスマスムードを高めようとしている。デパートの売り場は、もうすぐ時間切れといわんばかりに、プレゼントをまだ買っていない者に緊張感を強いる作戦のようだ。「間に合わない」というプレッシャーは人生を短縮させてしまいそうだ。それでなくとも、日本の年末はなにかと慌しいというのに。
いっそのこと今年は12月24日のクリスマスイブをあっさり諦めてしまおうか。今年のクリスマスは12月28日。ケーキでも焼いてのんびり過ごそうと今から決めてしまおう。

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