ロシア万華鏡

第1回 ロシアン・ティーの謎

2006年12月1日

私はロシアから、正確に言えばソ連から、日本に来てもう15年になるが、ロシアについてしばしば受ける二つの質問がある。一つは「ロシア人女性はなぜ歳をとると、太ってしまうのか」。そして、もう一つが「ロシアでは紅茶にジャムを入れて飲むというのは本当か」である。
実は、この質問に答えるのは、そう簡単なことではない。意外に思えるかもしれないが、事情はかなり込み入っているのだ。
回り道を避けていえば、紅茶にジャムを入れるロシア人が多いのは確かだ。だが、必ず入れるというものでもないし、友達の間や家族の中で、好みが分かれていたとしても、それは全く不思議なことではない。さらに、家訓として、紅茶はジャムを舐めながら飲むものであり、ジャムを入れるのは行儀が悪いとされている場合もある。
また、ジャムとお茶には相性というものがあり、その関係は実に複雑だ。
例えば、風邪を引いたときには、寝る前にラズベリージャム入りの紅茶を飲めば、とたんに汗が噴き出して、病状の回復が速まるという一種の民間療法がロシアにはある。小さいころから喉が弱かった私にとって、冬のイメージとは、雪に埋まった真っ白な野原でもなく、眩しいほどのダイヤモンドダストで輝く日曜の朝でもない。それは、真っ暗な寒い夜に飲むラズベリージャム入りの熱い紅茶の一杯なのだ。
モスクワ郊外でよく見かける、深いワインレッドをしたチェリーのことも忘れてはいけないだろう。直径1センチにも満たないこの小粒の実は酸っぱく、食べてみようなどと考える子どもはまずいない。しかし、それを甘くしたジャムを紅茶に入れて飲む人もまたいないのだ。種が入ったままの実を舌に乗せ、紅茶の渋みとのハーモニーを味わうことこそ、大人の紅茶の愉しみである。
だが、こうした長々とした講釈を喜んで聞いてくれる物好きはいないに違いない。だからこそ、私は少し心を歪めても、これまでは常に「はい」とだけ頷いてきたのだ(これでアンフェアだと思われる方には、この文章を持っておわび申し上げます)


У вас есть русский чай?(ロシアン・ティーはありますか)
肌を刺すように冷たい10月のモスクワの風は、まるでここがどこなのか伝えようとしているかのようだ。体を温めてくれる熱くて濃い一杯の紅茶を求めて飛び込んだカフェ。日本から同行した上司は「ロシアン・ティーがあるか、聞いてみてよ」という。そういう嗜好も悪くないかもしれないと、その言葉をそのままウエイターにぶつけてみた。
世界の高級ブランドが揃うデパートの1階にある店内は、まるで現代イタリア食器を思わせる。大きな窓ガラス越しにはお馴染みの「赤の広場」が広がる。メニューに載ったお茶の種類をみれば、典型的なイングリッシュ・ティー(ダージリン、アールグレイ、アッサム)から、中国のジャスミン茶、日本の煎茶まで豊富だが、さすがに「ロシアン・ティー」なるものはない。
すると、いかにも俳優見習いですといった風情のウエイターはクールな表情を崩さないまま「ロシアでは茶を栽培しておりませんので、インド産になりますが、よろしいでしょうか」と告げた。
見事な切り返しだが、負けず嫌いな私のほうも簡単に引き下がる気はない。


А варенье есть?(じゃあ、ジャムはありますか)
と畳みかければ、「ございますよ。今日はブルベリージャムがお勧めですが、いかがなさいますか」。
しばらくすると、可愛らしい花形の小鉢(ロゼトッカというジャム皿)が運ばれてきた。さあ、これでようやく、本場モスクワで「ロシアン・ティー」を楽しめるというわけだ。上司もきっと満足だろう。

しかし、これが「ロシアン・ティー」なのかと問われれば、また、そうとも言い切れない。ロシアで、紅茶といえば、ジャムが連想されるのは間違ってはいないが、ロシアン・ティーが「ロシアのお茶の飲み方」という意味であるなら、ロシア人の10人中9人は考えた挙句に「それは、サモワール(самовар)である」と応えるに違いないからだ。
サモワールとは、ロシア独特の湯沸かし器のことだ。湯沸し壺の中央にパイプを通し、電熱(かつては炭火だった)で3~7リットルのお湯を沸かす。お茶の時間ともなれば、大きなテーブルの真ん中にサモワールがでんと置かれ、家族で何時間もかけながら、何リットルも紅茶を飲み、笑いやお説教を交えたお喋りが果てしなく弾んでいく。サモワールの周りには、何種類ものジャムや蜂蜜、砂糖が用意され、舐めてもよし、紅茶に入れてもよし。これこそがロシア式のティー・セレモニーなのである。
ロシアには17世紀に中国からお茶が伝わったとされるが、現在でもコーヒーより紅茶のほうが圧倒的に人気がある。それも、こうした伝統が息づいている証なのだ。

さて、赤の広場のカフェでの一件から数日後、私はロンドンの繁華街コベント・ガーデンにある紅茶ショップ「ザ・ティーハウス」にいた。すでにシティでのミーティングは終わり、数時間後にはヒースロー空港から日本に立たなければならない。そのつかの間を利用して、お土産の紅茶を買っておこうというわけだ。
世界の紅茶ファンに知られる店は、その名の通り品揃えが豊富で、上品な香りが気分を落ち着かせてくれる。気に入ったブレンドティーのパックを大きな籠に放り込んでいくうちに、私の目はある棚に釘付けになった。なんと、そこに積み上げてあるパックには"RUSSIAN TEA"の文字があるではないか。

ものの本によれば、イギリスでの「ロシアン・ティー」とはレモン・ティーを指すようだ。19世紀末、ビクトリア女王がロシア王室に嫁いだ孫娘に会いに行った際、レモンを浮かべた紅茶を振るまわれたのがその由来であるとか。
そうだ。「ロシアン・ティー」とは、かくも謎多き飲み物なのである。

このコンテンツの著作権は、株式会社大和総研に帰属します。著作権法上、転載、翻案、翻訳、要約等は、大和総研の許諾が必要です。大和総研の許諾がない転載、翻案、翻訳、要約、および法令に従わない引用等は、違法行為です。著作権侵害等の行為には、法的手続きを行うこともあります。

お問い合わせ

コンサルティングに関するお問い合わせは大和総研が承ります。

お問い合わせ

コンサルティング

コンサルタント

セミナー