タイ:人権問題は貿易を阻害するか?

RSS
  • 金融調査部 研究員 中 澪

国連の「ビジネスと人権に関する指導原則」(2011年)等に見られるように、近年、ビジネスと人権を結びつける動きが世界的に高まっている。一方で、企業のサプライチェーンはますますグローバルな広がりを見せ、意図せずに人権侵害を犯してしまうリスクが高まっている。人権意識の低い企業に対する政府、NGO、メディア、消費者等の批判も厳しさを増しており、企業には海外子会社から委託先の生産現場まで、サプライチェーン全体のあらゆるところで人権に配慮する社会的責任が求められるようになっている。


しかし、安価な労働コストが投資の魅力となっている途上国・新興国の生産現場では、必ずしも労働者の人権は守られていない。例えばタイでは、2014年に英ガーディアン紙による衝撃的な「奴隷労働」報道によって水産業の悲惨な労働実態(※1)が暴露され、欧州企業の中でタイからの調達の停止や見直しを行う動きが見られた。仏小売大手カルフールはこの報道後、タイ企業からのエビの調達を停止することを発表している(※2)。また、英小売大手テスコはガーディアン紙に対し、自社のサプライチェーンを見直す具体的なアクションプランを語っている(※3)


このように「奴隷労働」報道を受けた欧州企業の厳しい反応は、タイの水産物輸出に少なからず影響を及ぼしたと考えられる。そこで、以下では国際貿易を説明するのによく用いられるグラビティ・モデルを下記の通り拡張し、「奴隷労働」報道の影響の検証を試みたい(グラビティ・モデルは、貿易額は二国間の経済規模に比例し、互いの地理的距離に反比例するとされるもので、国際貿易の実証においてよく利用される(※4))。

式

このモデルにおいて、被説明変数EXijは、2010年から2015年までのタイからEU28ヵ国への水産物(HSコード03)輸出額である。説明変数は、DISTij:タイと貿易相手国の距離、GDPi:タイの実質GDP、GDPj:貿易相手国の実質GDP、EXRij:為替レート(貿易相手国通貨/バーツ)の前年比変化率、そして、D:「奴隷労働」報道(2014年以降を1、その他の期間を0とするダミー変数)である(※5)。このダミー変数が被説明変数に対してどのようなインパクトを持つのかが、分析の焦点となる。


図表1は固定効果法(FE)による推計結果である(タイと貿易相手国の距離は国ごとの固定効果を持つため、念のため最小二乗法(OLS)の結果も参考までに併せて記載している(※6))。ここで「奴隷労働」報道ダミーの係数の符号はマイナスを示しており、統計的に有意であったことが指摘できる。すなわち、「奴隷労働」報道がタイのEU向け水産物輸出にマイナスの影響を与えた可能性を示している。

図表1:推計結果

分析結果からは、企業がグローバルにサプライチェーンを構築する中で、その条件として人権リスクへの対処が重要な意味を持ち、リスクが高いと判断された場合には当該国からの調達が避けられ、結果的に貿易額の減少につながることが示唆される。グローバル・サプライチェーンに組み込まれた新興国・途上国にとっては、人権問題の存在によって自国企業がサプライチェーン・ネットワークから外される可能性を認識し、人権と経済開発とを結びつけた政策対応が求められるといえよう。


(※1)The Guardian(2014)“Trafficked into slavery on Thai trawlers to catch food for prawns”,(最終閲覧日:2016年11月21日)
(※2)Carrefour(2014)“Information following The Guardian article on the supply chain for prawns in Thailand”,(最終閲覧日:2016年11月21日)
(※3)The Guardian(2014)“Revealed: Asian slave labour producing prawns for supermarkets in US, UK”,(最終閲覧日:2016年11月21日)
(※4)田中鮎夢(2012)「第13回『重力方程式』」、経済産業研究所(最終アクセス:2016年11月21日)
(※5)データの出所はそれぞれ、EXij:タイ税関局(Thai Customs Department)、DISTij:国際経済予測研究センター(CEPII)、GDPi・GDPj:国際通貨基金(IMF)、EXRij:Bloombergである。尚、EXijについては元データに0が含まれたため、全データに1を足して補完し、EU各国の水産物の輸入物価指数を用いて実質化した。
(※6)固定効果法は、パネルデータ分析において、経済主体の時間不変な個別効果を考慮する推計方法。尚、今回の分析で、固定効果法とOLSのどちらが望ましいかをテストするF検定は、有意水準1%で固定効果法を支持している。

このコンテンツの著作権は、株式会社大和総研に帰属します。著作権法上、転載、翻案、翻訳、要約等は、大和総研の許諾が必要です。大和総研の許諾がない転載、翻案、翻訳、要約、および法令に従わない引用等は、違法行為です。著作権侵害等の行為には、法的手続きを行うこともあります。また、掲載されている執筆者の所属・肩書きは現時点のものとなります。

関連のサービス