インドネシアの原子力開発事情

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  • コンサルティング第二部 主任コンサルタント 天間 崇文
福島での原発事故から一年余り、日本では二度目の「節電の夏」を迎えて原発の存廃を問う国民的議論が沸騰している。世界では、ドイツやイタリアなどで原発の廃止が国として決定される一方、ベトナム、マレーシア、バングラデシュなどアジア地域の国々は原発の推進を表明するなど、原子力に対する姿勢は国によって大きく異なる。では、最近の急激な経済成長で電力需要の逼迫が続くインドネシアではどうなのか、その原子力開発の歴史とともに見てみたい。


インドネシアの原子力研究開発の端緒は、1950年代の原水爆実験による影響調査を目的とした放射能調査委員会の設置である。初代大統領スカルノと続くスハルトは、先進国入りには原子力の利用が必要との認識に立ち、米ソと原子力協力協定を結ぶなど研究開発に力を入れた。1964年には国内初の研究炉の臨界を達成し、その翌1965年には現在の原子力庁(BATAN)が発足している。その後、1970-80年代にはイタリア企業の、1990年代には日本企業の協力を得てジャワ島での原発建設計画が検討されたが、1986年に発生したチェルノブイリ事故と1997年以降の通貨危機により、それぞれ中止や延期を余儀なくされた。

図表1 xxx
出所: 日本原子力産業協会資料、現地報道記事等より


とはいえ、経済危機からの回復後は、急増する電力需要への対処と電力源の多様化の必要性から、原子力発電の導入が再び検討され始めた。2000年代にBATANがまとめた計画は90年代の案を踏襲し、2010~2011年の着工と2015~2016年の完成を目指していた。また、2005年の国家電力総合計画には初めて原子力発電が盛り込まれ、翌2006年の大統領令でも原子力発電の目標値が具体的に述べられている。2009年には原発導入のための法規制、人材面等での整備状況についてIAEAから好評価を受け、原発の国家的推進態勢が着実に整いつつあった。日本も、日本貿易振興会(JETRO)や原子力国際協力センターを通じた協力を2000年代中盤から行っており、両国での自然災害の共通性に鑑みて、安全技術、運転管理等及び人材育成面での指導が日本に期待されていた。


ところが、昨年(2011年)3月の福島第一原発事故で、インドネシアの原発計画の雲行きは三たび不透明となる。元々の建設予定地であるジャワ島北岸のムリア半島では2007年以来、大統領経験者のワヒドやイスラム団体の支援も加わった大規模な原発反対運動が発生していた。そこでBATANは、その代替候補地として(1)現地住民の過半が誘致に賛成しており、(2)地震が少なく、(3)ウランが採掘可能で、(4)電力消費地に比較的近い、スマトラ島東岸沖のバンカ島に注目した。この周辺には荒廃した錫採掘跡地が広がり、さしたる代替産業もない地域である。どうやら、地域の雇用や振興と引き換えに貧困地に原発が誘致されるのは古今東西普遍の原理であるらしい。しかし、福島原発事故の実態が報道されるにつれ、同地域でも誘致賛成派の住民は5割を切ったとの報告がある。また、2011年6月に訪日したユドヨノ大統領も、日本と同様の大災害はインドネシアでも起こりうるとし、原発よりも地熱や水力開発を優先させる意向を示した。一方で、同年7月には原子力庁長官が、2014年以降の新大統領による原発推進に備えて建設準備を今後も継続する方針を表明した。2012年4月の現地報道では、早ければ2016年にもバンカ島で原発建設の着工が可能であるとする政府見解が伝えられている。つまるところ、インドネシアは原発の推進を表立って表明はしていないものの、建設の準備は着々と進行中、ということになる。


石油資源の枯渇も囁かれるインドネシアでの原発導入は、慢性的エネルギー不足への強力な解決策となり、貧困に喘ぐ地域の振興にも寄与することは確かであろうと思われる。しかし、大規模事故の際にはそれらの恩典さえ全て吹き飛ぶ大惨事となることも、既にチェルノブイリや福島において不幸にも実証済である。外国の一市民としてはただ、建設の是非の判断はできる限りの正直な情報公開と地元住民による慎重な合意形成の下に行われるよう願うばかりである。


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