2009年は「日メコン交流年」であった。これは、日本と東南アジアのメコン川の流域諸国(カンボジア、タイ、ベトナム、ミャンマー、ラオス)との間で、首脳会議をはじめとして、官民の様々な分野での交流事業を行ったものである。これら5カ国は、隣接する中国の雲南省と広西チワン族自治区も加え、大メコン圏(GMS:Greater Mekon Sub-region)を構成する。GMSの中心を南北に流れるメコン川は、中国のチベット高原を発して6カ国の流域を通り、ベトナムのメコンデルタで南シナ海に注ぐ。東南アジアで最大、世界でも12番目の長さ(4,425km)を誇る大河であり、かつライン川やドナウ川と同様の国際河川である。流域面積は約81万平方キロ(日本の国土面積の2倍強)、5カ国と中国の雲南省と広西チワン族自治区の全人口を合計すると3億人を越える。メコン川流域は、周囲の森林地帯も合わせた極めて豊かで複雑な生態系をもっている。淡水魚だけでも1000種以上が生息しているといわれ、一部の魚類はメコン水系内での回遊さえも行っている。その中には、淡水魚として世界最大級の体長3メートル、重さ300キロに成長する巨大な大ナマズやコイといった貴重な水産資源も含まれるが、それらは地域住民にとって貴重な蛋白源となっているのである。

1992年以降、カンボジア和平の後にアジア開発銀行主導のGMS経済協力プログラムがはじまり、メコン川周辺で多くのテーマに沿った開発プログラムが実施されている。GMSの高い成長力に着目した日本政府は、2010年に「日本・メコン経済産業協力イニシアティブ」行動計画と「グリーン・メコンに向けた10年」の行動計画を策定した。中国も、この地域の地政学的な重要性に着目し、巨額の投資・援助や貿易を通じて緊密な関係を構築中である。こうした開発計画の下で将来のGMSの電力需要を満たすため、メコン川の上流に位置する雲南省で、メコン本流に14のダム建設計画がすすめられており、下流のラオス・カンボジアでも、同様に11のダムが計画され、既にいくつかは完成済みである。また、雲南省を中心とした上流部分では、大型船の航行を可能にするための航路整備事業の一環として、メコン本流の浚渫工事も行われている。

大河メコン川の本流に、これほど多くのダムが建設され、かつ浚渫工事がすすめられた場合、生態系にどのような影響があるのだろうか。既に中・下流の流域では、流水量の減少、雨期の増水と乾期の水位低下という一定のサイクルが変化している様子である。メコン水系とつながるカンボジアのトンレサップ湖は、雨期には乾期の3~5倍程度まで湖水域が拡大するが、ここでも漁獲高の減少などの異変が生じていると伝えられる。また、乱獲による水産資源の枯渇から、先ほどの巨大淡水魚やカワイルカの絶滅までもが危惧されている。さらに、カンボジアから最下流のベトナムのメコンデルタ一帯まで、洪水で運ばれる肥沃な土砂が減少し、コメの生産に悪影響を与えることも心配されはじめた。つまり、メコン川の上流地域での配慮を欠いた開発計画が、下流の地域住民を苦しめる可能性が高くなっているということである。

河川へのダムや水門の建設がもたらす電力の供給、治水効果といったプラス面、環境・生態系への悪影響というマイナス面については、日本国内でも大きな議論がある問題である。簡単に賛否の結論は下せないが、少なくとも日本を始め先進国では、建設周辺地域の住民の意見を建設計画に反映させる方法がある。それに対して、メコン川とGMS広域経済圏ですすめられている開発計画においては、最も影響を受ける地域住民の声を吸上げ、計画に反映させる方法が確立していない。開発計画で多大な影響を被るステイクホルダー(利害関係者)である現地の住民とその生活が十分に考慮されずに、開発がすすめられる恐れはないのだろうか。この地域の開発の調整役を担う組織としては、1995年に設立されたメコン川委員会があるが、現状では有効な機能を果たしているか疑問もある。そのため、GMS経済圏の開発にあたっては、新たな制度的な枠組みの創設も一考となろう。いずれにしても、この地域における環境への影響を、開発の前に詳しく調査・評価することが重要である。

日本政府によって提案された「グリーン・メコン」行動計画も、水資源の管理、生物多様性の保全を謳っているが、今後のGMS経済協力プログラムの推進、メコン地域へのODA供与については、受益者が誰かを念頭に、その中でも弱者の声を聞きながら進めて欲しいと思う。メコン川は、決して流域国の政府や関連企業だけのものではない。現にメコン川の生態系によって直接に生活の糧を得ている人々が、最下流のメコンデルタだけでも1800万人、全流域では数千万人に達するのである。


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